昭和49年09月01日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
一心と定めるという事が大事。大きな信心には、行き詰まりがないと言われる。小さな信心は行き詰ると言う。けれども初めから大きな信心、大きな信心と言うても、そんな大きな信心が分かる筈もなからなければ、またいただける筈もない。今金光教の信奉者の全部が拝詞を唱えさせて貰う、ね。世界総氏子の身の上安全、世界真の平和と。これはただ唱え言葉であってはならんのですけれども、まぁ私から見るとただ唱え言葉に過ぎないと思う。問題はその世界真の平和。
世界総氏子の身の上安全というものが、切実にね祈らなければおられないと言う信心。そういう信心を私は大きな信心だと思う。ただ唱えたり願ったりするだけなら、ね。誰でもいわば全教の言うなら、信奉者が唱えてるんだけれども、それを我が事自分の事として願うという信心。それにはね先ず一つ小さなと事から信心を初めて行かなければ出来ん。そして育って行かなければいけん。でなかったら中身のないただ唱え言葉に過ぎない、大きなことを祈り願っておるというだけに過ぎない事になる。
小さい所から、ね。神様の一分一厘間違いのない御働きを、自分の身に感じ又おかげの上に現していく。それが段々広がりに広がっていって、ね。隣近所の事から、ね。それこそ日本国中の事からそれこそ世界中の事、所謂地球上の事だけではない、それこそ天地の事を願わせて貰う。ね。そういう信心になって参りますと、迷いが起こらない。昨夜は月末ですから、月末御礼信話会が何時もの様にありました。
昨日皆さん本当に有難い体験談を話しておられましたが、中に久富繁雄さんが、こういう様なお話を発表しておられました。昨日は家族中でレタスの野菜ですね。レタスの移植ですか、それを何千本かなさった。そしたら長男の邦夫さんが、お父さん今日んごたる日にしてからあんた、暴風が来るち言いよるとにと言うて。ちゃっと御取次ぎを頂いての事だからと言うて言われた。ね。お父さんそげなこつ言うばってん、降らん降らんち言うとって降ったり、ね。
必ず降るがと言うとっても、降らじゃったりする様な事があるじゃんのち言うて言うた。もうただ、自分というものだけが中心。自分が都合が良ければそれで良い。どうぞ降りませんようにと言うてお願いして降らなかったら、もうそれで有難い。ここはいっちょ降らんならんと思う時に、お願いをして降ったら有難いと言う様な信心ではいかんぞと。今親先生は何を願うておられるかね。それこそ地球上の総人類の事を、しかもあのような熱烈な願い祈りを持って、しかもそれを合楽全体の信心だけではなくて。
この願いこの祈りを世界中に広げて行かんならんと言うて、毎日言いござるじゃないかとね。とにかく御取次ぎを頂いて起きて来る事、良い事悪いことね。それは自分に都合の悪い事であっても御取次ぎを頂いて、起きて来る事はみな良い。御取次ぎを頂かずして起きて来る事はそれは良い事の様にあっても、みな悪いのだと言われるのだから。そういうこまい事を言うなと言うて、話したと言う話をなさいました。
大きいです。お願いしとったばってん風が吹いた。お願いしたけれども雨は降らじゃったと、例えば言うような事では、神様も当てにならんと言った様な事になってくるのですから。私は御道の信心者はね、御取次ぎを頂いて起きてくる事。それはもう全てがご神慮おかげとして頂けれる信心こそ、私は大きな信心だと思う。また事実がそうなのです。ね。何日かたってみなけりゃ分からん。何年かたってみなけりゃ分からん、いや何十年たってみて、成程それが本当であったと言う事が分かるのです。
御取次ぎを頂いて起きて来る事、良い事悪い事みんな良いんだと言う事。御取次ぎを頂かずして、ね。起きて来る事それは例えば、ね。天候であるとか儲けるとか、ね。まぁ自分の都合の良か事が、如何にそれが沢山、良い事だらけであっても、御取次ぎを頂かずして起きて来る事は、結果においては良くない事なんだと言う事をです。これは御取次ぎの働きというものは、そういうものなんですから、それを信ずる事が、金光教の信心だと言うても良いのです。ね。所がなかなか信じられない。
そこでほんなら、御取次ぎを頂く先生の信心と言うか、先生を信ずると言うか、これはもう昔から言われておるですけれども、御取次ぎを願うその御取次ぎの先生が、どういう人が御取次ぎをなさっても、それを生神金光大神様として頂けれる。頂かなければ所謂、取次ぎの先生が拝めなければ、本当のおかげは頂かれないと、こう言う訳なんです。中々所が拝めない。先生もやっぱり人間だから、ね。
そういう言うなら、先日の御理解昨日一昨日でしたか。神様は私の事をいうなら、大黒様だと言うて下さる。先日今まぁちょっとした、合楽でブームが起きておる、ね。もう今日あれが出てしまわれると七十四体、合楽から大黒様が出て行かれる事になる。まぁ合楽と言う所は面白い所じゃある。先月私がお夢を頂いた。大黒様がこの合楽のお広前から、ころころころころと、大小の大黒様が、転がる様に出て行かれる所を頂いた。そういうお話を私が御理解に聞いて貰うた。
所が皆さんがその家にある大黒様が随分やっぱ、あるもんですよね。様々な大黒様が集まってきた。それも例えば久留米の佐田さん辺りの様に、神様を奉祭霊神様をお祭りさせて貰うて、その真ん中に小さいこういう玉櫛膳が置いてあって、その上にまぁ先祖伝来伝わっておる大黒様がお祭りしてある。しかも是は大黒様ではない。親先生の事を神様が大黒様と仰るのだから、親先生と思うて拝みよりますと、こういう佐田さんの家にです。もうそれこそまぁ昨日、佐田さんの奥さんが発表しておられましたがです。
現在示現活動に参画させていただいて、家中の者がその事に、一生懸命にならせて頂くが、もうとにかく私の方はどこを切っても、どこを話してもお話にならないとこがないほどに、おかげを頂いておりますからというほどしに、おかげを受けておる。そういう一つの手本があるもんだから、はぁ合楽の佐田さんの所は、大黒様をあげんして拝みござるけんだろうと言うのであろうか。まぁ人間の欲というのであろうか。もうそれこそ大黒様を、みな持って来る持って来る。
みんなその拝ませて頂くから、もう一遍ここでいうなら御神を入れてくれという意味でしょう。もう久留米ではこの頃大黒様が、あんまり売れてからどう言う訳でこの頃、大黒様がこげん売れるじゃろうかと言うてから、そのどこにでもないですからね。それをしかもその人相の良か、大黒様でなからやいかん訳です。ね。大黒様を買いに行く人が、次から次あるけん、どうしてこの頃こげん大黒様が売れるじゃろうかというぐらいにある。まぁ買い尽くした訳でもなかろうけれども。
四国のこれは大黒さん彫りでは、もうとても名人と言われておる方の、大黒様がございましたから、それを皆さんが注文された。所がもうその方はもう年配ですからその出来ない訳です。まぁ少ししか出来ない。それでそれが要るならば、金比羅山の門前町にその一軒一軒訪ねて回るならばあるというので四国のご信者さんがそれを聞いて、そしてそんなに大黒様を皆さんが求めておられるのならば、私が買いに行ってあげましょうと言うて、それこそ小二時間もかかる所へわざわざ。
金比羅山の門前町にまで買いに行ってから、あれを送ってきた。十何体。そして後もまた出来るだけまた送りますと言う事らしいんです。ね。そるけん、まぁなるほど、大黒様を、本当に拝ませて頂いて、もう本当に、その翌日ころっと二百万円入ってきたとか、ね。もう取れない筈の集金がお祭りさせて頂いて、拝むようになったらもう思いがけない集金が入ったとか。それは成程そういう体験が生まれておるです。
昨日も久留米の三橋先生が、昨日大黒様を頂いて帰って、それこそ神様と霊神様との間に奉祭させて貰った。そして先ずは親先生が、御茶がお好きだからと言うて、濃いごいと御茶を注がせて頂いて、お供えさせて貰い。親先生はもう最近は氷水を沢山頂かれるから、氷水でもお供えさせて頂こうと言うて、その氷水と御茶とをお供えしてから、もう心行くまで御祈念させて頂いた。丁度お金の切れ目で、明日は大体入る予定になっておるばってんからまぁ一日辛抱せじゃこてと思うとった所がです。
そしてお供えさせて頂いて、拝ませて頂いてからこちらへ来た途端に、もう思いもかけない人が五千円、お金を持って来てくれたとこう言う。まぁ恐れ入ってしもうたというお話を、昨日発表してました。それはねあんたがその氷水と思うた所が、通うておるとばいと言うて、昨日笑うた事でしたけれども、ね。問題は一つの情感なんだ。神様でも御霊様でも、親先生と皆さんとの間にでも、一つの情感というものが交流する。
はぁ親先生が御茶がお好きだからと言うて、御茶だけではいけんとか、行くとかいう意味じゃないですよ。親先生はこの頃、もうしきりに氷水をあんなにして頂かれるから、氷水もお供えそこにいうならば、大黒様と三橋先生が通うた。私と三橋先生が交流した。そこからですそれこそ、まぁ僅かじゃあるけれども、打ち出の小槌をこうやって、一振り振って下さった様な感じがするじゃないですか。ね。ですからです小はです、例えば自分の小遣い銭の事から、自分の身体の痛い痒い事から、ね。
言うならば困っておる難儀、まぁ願いという願いの、それこそ牛馬の事に至るまでと仰せられるのですから、ね。小さいと言うならそういう小さい所から、おかげを頂いて、神様の間違いなさに恐れ入ると言う、その心が育って行かなければいけない。それに終始してはならない。それが育っていくと言う事なんです。ね。そしてそれが天下国家の事までも、祈らにゃおられないと言う事になってこなければならない。
昨日熊谷さんが発表しておられました。皆さんもご承知のように、もう七十五歳ですか六歳ですか。ここ二十五年間ね。毎朝朝の御祈念だけじゃない。夜の御祈念しかも三里の道を遠しともせずに、さぁ何か会合があるといや、もうそれこそ一途なおかげを頂いて。もうそれこそもう本当に、何と申しますかねぇ。置いたものを取っていくようなおかげを受けておられる。
娘さんが近所の病院にお嫁に行っておられる孫さんが、今久大に行っておる。それが病気で、自分の家で治療しておられた所が、やっぱ自分の家じゃいかんと言うので、九大に入院された。ね。白血病という事が分かった。もうそれこそもうあらゆる手の施せるだけの治療とさせて頂いたけれども、益々悪化していくばっかりで、もう愈々五日しかもてないという事になった。親戚兄弟の方達、みんな東京辺りからまでも、その事を聞き伝えてみんな集まられた。
その翌日だったでしょうか。もう物も言えない湯水も通らないという状態の、そのお孫さんに、ね。熊谷のお婆ちゃんが、ね。お婆ちゃまが言う事が分かるかと言ったら、こうやって合点をされた。お婆ちゃまが明日ね、お神様をこの病室に奉祭、御祭りさせてもらうから。あんた拝むかと言うたら合点された。あくる日早速お神様を丁度病人が寝ておる所へ病室のそこへ、もうこうなるとお医者さんもです言うなら、さじを投げておりなさるけん、もうどげんしなさったっちゃ良かと言う事になる。
もう堂々とお神様を御祭りさせてもらった。お神様をいうなら、寝ながら念じ寝ながら拝みお婆ちゃんがお話をするとが、分かるかと言うと合点をする。きつい時には頭ばこう横に振らんねと言うと止めるからと言うて、もう懇々とお話をされる。もうそれこそ分かられるか分かられんか知らんけれども、涙を流して頂かれる。それから間もなくでした。湯水が通るようになり食べ物を食べられる様になりもう自分の寝台の周辺に、あらゆる機械がこう置いてある訳ですね。
もうその治療のための。もうそれが全部一つ一つ、取り払われてなくなってしまうほどしに、おかげを頂かれた。如何に御医者さんでも、ね。言うならお婆ちゃんの信心に、まぁある意味合いでは、抵抗反抗もあったんですけれども、実際その自分の子供がおかげを頂いて行く姿を見ては、お母さんとても一生懸命、お参りせん訳にはいけん。お参りをするようになった。もう愈々おかげを頂いてきた。
現在の白血病が、ね。もうしかも五日しか、医学の上ではもてない命が、反対におかげを頂いて来て、しかも血が増えて来たと言う事。さぁそれから、ね。自分の隣の病室におられる方に、その話をされた。この方はもう七年何ヶ月も入院しておられて、もういよいよ医者は先月の言葉でもう今月か、来月早々までの命だと言う事を言われて、それこそそこのこの方は韓国の方です。李さんと言う。ね。その話を聞かせて頂いてさっそく、お参りをしてきた。ね。
そのお孫さんの休んでおる人のお姉さんと、それから熊谷のお婆ちゃんと三人で、お礼お届けに見えられた、お願いに見えられました。ね。そしてあくる朝からお参りをしてくるようになった。所が三日目にお参りがなかった。それで熊谷さんわざわざ吉井から久留米までですからねぇ。とにかく親切心がなからにゃ出来る事ではない。折角御参りを始められてお参りが出来んからと言うて、わざわざ久大まで医大まで行かれた。所が出会い頭にその方と会うてお婆ちゃま、私は今からお参りしようと思いよります。
いやぁそうやったの。それは実はあなたが今日朝お参りが出来ていなかったから、あのどんな風だろうかと思うて今日は来たと言うて、その奥さんが運転される車に乗ってこちらへ参ってきた。自分の家は東の方、久留米のほうは西のほうですね。それからお参りをして、そん時に李さんが言うておられましたが、本当にまぁ金はどがしこあるじゃら分からんごと持っておられるらしいですけれども。
もう金だけではどうにも出来ない事があるて。ね。私はその為に長男が十九歳になるとがノイローゼ気味で、それから主人はそんな風ですし、もう本当にこうやって自動車で、あちらこちらに参ります時にです。何かダンプカーか何かばぁっと出てきてもう、一思いに死んでしまう様な事は出来んもんだろうかと思うくらい。自分で死にはきらんから、そういう事故にすら合いたいという願いすら持ってハンドルを握っておったのがです。こちらに二三日お参りをさせて頂いて、何か希望が湧いてきた。ね。
ご主人に御神米を頂かせられる。ね。そしてたどたどしいお話ですけれども、信心の有難い話をされる。ね。その帰り道です。ほんなら熊谷さんはこちらへ帰ってみえたけども、もう一遍ちらへ行ってあの孫にも会いたいし、またご病人にお話もさせて頂きたいと言うので、又一遍往ったり来たりを待たされた訳です。そして久留米のほうへまた行かれた。そして夕方になったからそのお孫さんに、お婆ちゃまは帰るよと言ったら、お婆ちゃま今日は泊まっていってくれと孫が言う。初めて泊まらせて頂いた。病院に。
そしてもう幾らお話をしても、お話をしてもそれこそ喜んで、有難く聞くからもうこの位で止めてとと言うても、求められるままにお話をさせて頂いて、もう幾らなんでん休まにゃと言うて、まぁ休ませて頂いた。夜中に何回も何回も、おぞまれるけれどももう、いつもスヤスヤスヤスヤと休まれる。ほう何時もやっぱこげんおかげ頂いて休みよるとじゃろうかと思うてあくる朝です。夕べあんたもう何時起きとっても休んどる。それがお婆ちゃまこの頃は、全然眠れなかったと言う。
ところがもう夕べだけは、もう本当に熟睡したと。と言うておかげを受けた。それはお婆ちゃんが、毎日泊まらにゃいけんねと言うて、まぁ言う事だった。そのお孫さんがです。言う事がね、お婆ちゃま今度の病気で、僕はひとつ本当の事が分かったとこう言う。どげな事が分かったねち。もう人間の愈々の時には、医者やら薬やらというものは、絶対役に立たないと言う事が分かったち言う。素晴しい事が分かったばいち言う。ね。あんたがお医者さんの卵ですから、ね。
お医者さんにならにゃならん。そういう大変な事が分からせて頂いて、治療を受ける患者さん達が大変、おかげを頂く事じゃろうと言うて、孫とお婆ちゃんが喜び合ったと言うております。ね。そこでです今合楽で言われておる所の合楽示現活動です。ね。合楽を現すと言う事は、合楽教会を現すと言う事ではなくて、ね。神も助かり氏子も立ち行くという信心を現すという事なんです。
そこでほんなら合楽で皆さん、おかげを頂いておる方達は、先ず自分自身が合楽の一歩手前である所の、極楽のおかげを受けておるという確認を持たなければいけない。お参りが出来ておる、ね。また事実そうです。合楽にご神縁を頂いて先ず第一に、おかげを頂いておる事は、ね。三年五年十年二十年と信心を続けておられる方達ならばです。先ず第一自分の家に薬箱が無くなっておると言う事実なんです。ね。おかげでね言うなら貧乏から、おかげを頂いて、沢山な巨万の富をと言うのじゃなくてです。
もう日々その日暮らしではあるけれども、これだけは絶対間違いなく、神様がお都合お繰り合わせを下さる。必要なものは必要に応じて頂けるという、確信の持てれるおかげを皆さんが頂いておるという事なんだ。次には争いというものがなくなったと言う事である。問題を問題にしていきよったのが、もう問題が問題ではなくて、その問題のおかげで信心が分からせて貰うと言う生き方が、段々身に付いてきた。
それは極楽の世界もピンからキリまであろうけれども、先ずは私は極楽ほどしのおかげを受けておるんだという確認を持ってです、ね。その喜びその信心を、ね。これを人にも伝えて行こうという働き。そういう活動が始まっておるのを、合楽時限活動という訳なんです。ね。自分だけが蓮の台(うてな)の中に、ね。座っておるというのではなくて、その極楽の世界を、また人にも伝えていくという働きが合楽なんだ。それを神様も喜んで下さる。私共も喜べれると世界を広げて行こうと。
顕現して行こうというのであるしかも今はです。それを顕現していかなければならない程しに、先日から頂きます様に地球上に地球に、もう死相が現れておると神様が仰った。という程に危機を感ずる、又は事実そうなんです。ね。公害の問題人口の問題資源の問題、ね。もうどの一つを取っても、成程地球上に危機が現れておる、死相が現れておると言った様な事がです。
大きないうならば異変というか、地球上に様々な変わった事が起こってきておる。サハラ砂漠にね。雪が降って何十万という人間が凍え死ぬと言った様な事が起こったり。南極の海が凍ってしもうて、船が動かれないと言った様な事が起きたり、ね。それこそ神様天地の親神様がです、ね。もうそれこそ卓を叩かんばかりに、さぁ今本当に一人でも多くの人間が地球上からです、ね。抹殺されるのではなくて生き残れる事の為にです。ね。いうなら善が残って悪が滅びる時代が、もう間近に迫っておるんだから、ね。
善を取らせて貰え分からせて貰え、真の信心を分からせて貰うてです。神を信ずる生活をしてくれよと言う、神様の言うなら絶叫にも似たようなものを、私は感ずるです。ね。そこで神様に、私がそれをお願いさせて頂いたら、氏子が自分で自分の首を絞めていくような生き方になっていくから、そういう結果になるんだ。そこでです自分で自分の首を括るのではなくて、広がりに広がっていくと言うおかげの頂けれる道をです。私共が体得させて頂く者のみが、生き残るんだと言う事になって来るならばです。
一人でも多くの人が生き残ることの為に、一人でも多くの人に示現活動というものがなされなければいけない事になっておるのです。示現という意味は、神仏が不思議な働きを示し表す事だと。その運動に参画すると言う事はその計画に、ね。預からせて頂く事だと、辞典には教えてあります。ね。だから合楽示現活動に、お互いがです参画させて貰う願いを持たなければいけないと言う事なんです。私は今朝方お夢を頂いた。もうここの駐車場の四倍位あるぐらいな、。
広い広場で合楽の信者さん方が、もう隅から隅のほうへ、ずうっと輪を描いておる。中にはおかげを落として、信心を止めておるという人達の顔も見える。私は高い真ん中に、丁度言うなら何と言うですか。あの盆踊りかなんかの時に、輪を描いて中にこうする。そこに立ってから、私は皆んなを見ておるのです。そしてその皆が踊りを踊らなければならんのだけれども、その所々の人しか踊りを知らん。外の者はまぁ手ば右さんこうやよると、知らん者は反対左のほうさんこうやっとる。
それでもう皆がその(笑いど示ししながらですね)こげな簡単な踊りだけれども、中々やっぱ、覚えてしまうまではち言うちから、そのまぁ踊ってこう輪になってだけはおるけれども、まだ踊りになっていないと言う所を、今日お夢に頂いたです。ははぁ是が今合楽で言われておる所の光臨の世界、光の輪を広げに広げていくと言う運動だなと、私は思うた。いわゆる示現活動に参画しておる人達だと思うた。
けれどもどういう風にして、示現活動に参画さして良いか、まぁだ手の動かし方足の動かし方すらが分かってはいないという人が、先ずは殆どであるという事なのです。ね。これは人真似じゃいかん。やっぱりそれぞれのものでなからなければならない。人にもお話をさせて貰おう。おかげの泉で、遠隔地の方達は、もうおかげの泉だけでおかげを頂くと言うて毎日、お礼の手紙が来ておるほどしにおかげを頂いておる。
その代わりにもう、それこそ日の内に十五回も読むと言う病人がある。読むたんべんにおかげを頂く。という様にです。おかげを見たり聞いたりしておるけれども、実際ほんなら、ここで合楽の信心をして、毎朝例えば朝の御祈念でも参られる方達でもです。どういう風にして、そのいうならば示し現していくか、ね。その意味がまぁだ分からんでおるというような状態ではなかろうか。まぁだからそれは、ね。初めから大人(おせ)はおりません。それから一人ひとり本当な事が出来て、この打って一丸になった、大きな輪がです。どっから見ておっても、何と言う素晴らしいリズムであろうか。
何と言う素晴らしい、あのリズムに合わせて踊っておる踊りに、私も一つかてて貰おうという様な素晴らしい踊りの輪になっていかなければならない。なるに違いはない。けれども、今は今今その示現活動が、いうなら二十五年ぶり。合楽でお導きをすると言う事を言うた事がない。人に話せと言うた事がない。それがです二十五年たった今日、改めてです、それこそ何かの蓋を取ったように、光の輪を広げていけ合楽示現活動、合楽示現活動と口を開けば、私が皆さんに聞いて貰っておるけれども。
親先生はあぁ言いなさるけれども、合楽示現活動運動とはどう言う事であろう。参画すると言う事は、示現とはどう言う事であろうか。ほんならどんな風に言うて、人にお話を伝えて行ったら良いだろうかと、まぁだ分からなかったり、迷うたりしておるような状態の中ですから、お互いここに最後にある一心と定めいと。よしもうこの信心で行くという腹を決めて、そして愈々手の動かし方足の動かし方をです。
しかもそのリズムに乗って、動かして行けれるような稽古をさせて頂くと言う様な信心こそです。愈々私は大きな信心だといえるのじゃなかろうかと思う。この輪をです。今世界中に広げていこう。それをまたの言葉で言うと、和賀心時代を作ると言うのです。ね。そうしたその和賀心時代に参画する人。その光の輪に入ってくる人だけはです、ね。生き残れるんだと言うのですから。もう一人でも多くの人が生き残って貰わにゃならん、助かって貰わんならんためにです。私共はここでは本当にもう命を懸けて、この事の活動に参画させて貰わなければならん。
そういう大きな願いの元に、お互いの信心が願いの焦点と言う事が、そう言う事になったならです。迷いも起こらないだろう、ね。例えば少々の苦労があっても、それを修行と受けて行けれるだろう。ね。そこに私は信心は大きな信心が良いと言うのは、そう言う事だと。為にはほんなら大きな事ばかりを言うておるのじゃない。先、自分のね。身近なそれこそ痛い痒いの事から、もう今日は小遣いが無くなったなら、小遣いが無くなった所からです。それこそその場で打ち出の小槌でね。
打ち出して頂ける様なおかげを頂きながら。神様の働きの一分一厘間違いのない事よと思わせて頂く生活をですさせて頂いて、ね。極楽の確認をさせて頂いて、そしての自分のおかげを頂いておる事を広げて行く事を言うならば、ね。光臨の輪だと言うのです。光の輪を広げていくというのです。ね。そこでそこに愈々肝心な所は、ほんならどこかと言うとです。熊谷さんの例をとりましたが、ね。又三橋先生の例をとりましたが、ね。本気で大黒様が拝めれる信心を、先ずは頂かなければならないと言う事であります。
言うならば取次ぎ者と皆さんとの、私と皆さんとの間がです。それこそ氷水一杯で交流するのですから、こげな見やすい事はないじゃないですか。ね。問題は氷水をと思うその心なのです。ね。そしてほんなら、熊谷さんの発表じゃない、久富繁雄さんのお話じゃないけれどもです。御取次ぎを頂いて起きて来る事にです。良い事悪い事、降るとか照るとか問題じゃない所をね。今の合楽では、親先生が何を言うておられるかと言う様な生き方にならせて頂いて熊谷さんが。
昨日発表しておられる中にです。そのここからお参りをしてまた、久留米にいく道々です。その李さんがお婆ちゃま、私はねお友達がない。本当にお宅のお嬢さん達は幸せです。こんな良いお婆ちゃまをもってと言われた。それで間髪をいれず私は申しました。李さん私はあなたをお導きさせて頂いて、あなたも家の娘と同じような気持ちが致します。同じ気持ちで思いで、毎日お取次ぎを頂いておりますと言うたら、大変に喜ばれたと言う事です。ね。国籍は違うね。
けれどもですその熊谷さんが、自分が間髪をいれず言うてはっと思うた。そしたら本当に自分の心のなかにです。自分の娘と、この方とが、同じだと言うたが、本当だろうかと思うて、自分の心を検討してみたらです。確かにこの李さんの事をです。自分の娘と同じような思いで祈っておる自分に気が付いて、自動車の中で改めて自分で自分の心を拝んだ。自分で自分の心を有難いと思うたと言うておられます。これがほんとの意味においての人類愛なんですよ。
そういう心が生まれて来なければです、一人でも多くの人が、生き残る事の為にの活動に入られんです。この人ばお導きすりゃ自分が助かれけんてんなんてんち言う様な条件。お導きをして、自分が助かるからお導きしよる。と言う様な事ではいけんのです。ここに一人の難儀な氏子がおる。本当に自分の娘の様に自分の息子の様に思うてです。ね。そういう私は心の状態、ね。同時に大きなと言うなら、繁雄さんの信心のお話の中から又は、小はほんならもう本当に、愈々今日の小遣いまでなくなったと。
もう明日は入るけん、よかよかと思うておったけれども、お大黒様を拝ませて貰うたら、氷水をお供えさせて頂いてです、心行くまで拝んで帰った時には、もう思いもかけない人が、五千円持って来てくれておったと言う様なです。そういう小さいおかげからです。ね。そのおかげを育てて行く所の信心の内容としてです。私共の心の中の神心というものが、愈々育って行く所の信心を頂く事のために、本気で本心の玉を磨かなければならない。日々の改まりも大事であり、ね。
同時にですそういう世界の言うならば地球上の大きな難儀、死相が現れておる程しの地球を、ね。復活させる生かすおかげを頂く事はです。今の合楽示現活動をおいて他にはないと確信させて頂かなきゃいけん。口では私とほんならお道の信奉者だけでも沢山の人がです。世界真の平和世界総氏子の身の上安全を願っておるけれども、ね。自分の手元の所が出来ずしておいて幾ら願った所で、それは大した願いにはならない。ね。自分の頂いておるおかげのその実感が。
光の輪がこうやって、広がっていく様に広がっていってこそです、本当の世界を総助けに助けていくと言う働きになって来ると思うのです。今そういう大変な時期に、私どもは金光様のご信心を頂き、取り分け合楽にご神縁を頂いておると言う事をです。先ず有難しとそこに極楽の確認を持ってです。この極楽をですこの有難い心を人にも伝えていくと言うのが、神も助かり氏子も立ち行くと言う事であり、合楽的に言うならば合楽を示現して行くと言う事に他ならんのであります。
どうぞ。